昭和44年02月27日 朝の御理解



 御理解 第76節
  「人は人を助けることができるのは有り難い事ではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助ける事はできぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時に神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ。」

 「人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから」病気災難というのはあらゆる難儀な時しかも特別という事と思うですね。「特別の働きを持って助けて頂くのであるから、特別の働きを持って助けて頂くのであるから、人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」ここん処に焦点を置いてお話を聞いて頂きたい。私共がおかげを頂きたい、おかげを頂きたいと思います。
 それが神様の助けを特別に頂かなければ、おかげを頂きたい、おかげを頂きたいと云うてるだけでは出来んのです。特別の助けを頂く為には、どうでも人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心しなければならんのです。人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと。ですからお互いがですたい、本気で人を助けるのが有難いと心得てお互い信心しておるかと云う事を思ってみなかればならんのです。
 日のうちに何回かでも考えてる事があるだろうか、「人が助かる」と云う事を。人間がそれを考えていませんとね助けるどころか、却って人を不幸に陥れる、却って人に難儀をかける事になって居る事に驚きますです。ここんところは一つ、本気でお互い分からせて頂かなければいけないと思います。お互い助けて頂かないといけない、又おかげを頂きたいと思う。皆んながおかげを頂きたいと思わん者は一人もいないでしょうが、ここにお参りして来る人である限り。
 しかもそれは、普通一般じゃない、「皆んなにおかげはやってある」というおかげではなくてです。特別のおかげを頂きたいと、願う人ばっかりでしょうが。その特別のおかげを頂きたいと願うんなら、人間はその様な時に、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが、有難いと心得て信心せよと仰るのに、そう言う風に心得ているかどうか。それを心得ていない。 
 ならそこから一つ、改めていかなければならんのです。人の難儀を助けるのが、有り難いと心得てと仰せられておるのに、人の難儀を助けるのが、有り難いと心得ていない。人間は不思議なもので、ここんとことを心得ていないと。自分では助けるとも殺そうとも思てもいないのです。信心でもさして頂く者は「今日はあれを傷つけてやろう、今日あれを殺してやろう。」と助けるの反対の事を思うている訳ではないのだけれど。
 ところが実際においては殺している事になり、傷つけて居る事になっておる事が、あまりにも多い事に気が付かせて頂いて、はあ、是では特別のおかげが受けられんと云う事を悟らなければなりません。そのまえの75節を頂きましても。「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ」神の機感に叶わん。「目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれに、お仕置きに合うが心で殺すのは、神が見ておるぞ。」とこう仰る。
 私共が始めから心で殺そうとか、心を傷付けようと思うている者はないけれども、思うておる者はないけれども、人の難儀が助かるのが有難いと、心得ていない処から、何時の間にか人を傷つけたりたり、人を殺したりしているのであります。ですからおかげが受けられる筈がない。どうでも今日はね、人を助けるのが有難いと心得てと仰るのですから、有難いと心得て今日一日の信心をそこに焦点を置こうじゃないですか。
 人の難儀を助けるのが有難いと心得て」そこに私はより明るくよりにこやかにと云う事が根本にならなければならないのです。私共がより明るくとか、よりにこやかにと云う事に焦点を置いていないと云う事だけで、人を殺したり傷つけたりする事になるのですから、手は下ろさんでも、手は下さんでも、ものは云わんでも、一人が明るいどころか暗い顔をしているだけでも、人の心を暗くします傷つけます。
  その上プンプンして御覧なさい相手の心を殺してしまいます。どうしてそう云う事になるか。心懸けていないからです。人を助けるのが有難いと心得ていないからです。そこん処に心懸けて何故心懸けなければならないか、それは特別のおかげを頂かなければならないから。人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、助けて貰わにゃならんのであるから人の難儀を見て助けるのが有難いと心得て信心しなければならない。心得て信心しなければならん。
 自分の態度がひとを、傷つけていないだろうか、自分の云うてる事が人の心を暗くして居る事がないだろうか。そこで反対に暗い人があっても、傷つけられている人があっつても傷を癒してやる心、その人が暗い心であっても、明るくなる様な心の持って行き方が、人を助ける事になっていくのであるね。私は人の難儀を助けるのが有難い、と云うのは成る程そこに、病気をしている人に、お導きでもして助けてあげよう、それも大事な事出御座いますけど。
 私共は日々です、日々ここんところお心掛けを持って信心さして貰う、ここんところの心がけをもって、日常生活をさして貰わなければ、私は信心生活にはならないと思います。特別なおかげを頂きたい、おかげを頂きたいと思うて、信心をしておりましても、それが特別のおかげになって来ないと思うのです。だから一つ、神様に詫びなきゃいかんと思う。知らず知らずの内に人を傷つけ、知らず知らずの内に心で人を殺し。
 ここん処に本当に心を使ったら、おかげを受けられると思うんです。「の難儀を助けるのが、有り難いと心得て信心せよ。昨日一昨日金光教下田教会の教会長先生が研修会をやっているお終りごろに文男さんが、下田教会の先生が見えとります、丁度先生ぐらいの年配の人ですとこう云う。それじゃ「応接間に通しておいて下さい。」とあちらにお通しして終わりを待ってあちらにまいりました。
 ところがどういう事で見えられたかというと、大変この頃は合楽教会の御比礼の事をよく聞かれる。たまたまあちらの教会広島と山口との境の下田という島らしいですね。人口四万か五万の島そこの教会を持つとられる。八幡教会から奥さんを迎えとられる、それで八幡教会の報徳祭にお参りをされてこちらに足を伸ばして見えた訳です。それがその方は親教会を4つ持ってられる。
 八幡は奥さんの里という、意味あいでの親教会。自分の親教会そこに、32か3になる女の先生がおられる。その方のお婿さん探しに来たと言われる。合楽教会には大変な信者さんが沢山おられるという話しだから、もし先生の眼鏡にかのうた方が居られたら、初婚の方だそうで、33になられますけれども。こちらも初婚とっても、そんな年配ですからなかろうから。
 まぁ適当な信心のある方で、その方の主人になる様な人がなかろうか、とそれが用件の様にして来られました。しかしそれが用件であったとは思われない。段々ここの信心が見たいそして言うとられましたのが、半分は悪く言う、半分は素晴らしいと云われる話を聞いて来たという。半分は拝み信心だと言うような風評がある、半分は大変な教会であると聞いて来たという。
 その先生がその晩が修行生の信心共励の日で御座いましたから、遅くまで先生の話を皆が頂いて、大変おかげを頂いたんですけれども、その中に「天地の働きは真だ、天地の働きそのものが真だ。だから当然その真にまことを持ってこたえないといけない」という意味の事を繰り返し云うとられます。天地の働きは真だ天地の働きそのものが真だ、その真には真を持って応えないといけない。確かにそうだと思います。
 天地の働き全てが真である。即ち神愛なんですだから私共も又愛の心をもって応えないといけんのです。所謂人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心しなければならない。そこで我々信心しているけれども、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心しているかどうかという事。そこん処の「心得て」と仰るのに心得ていずに信心をしている所におかげが受けられんのだと云う事になれば。愈々もってここん所に焦点を置く。
 それは自分で人を傷つけたり殺したりしようとは思うておる者はないにしても、心得ていない所に本気で明るくなろう、本気でにこやかになろうと、心得ていない所に自分は気付かんままに人を暗くしたり、人を傷つけたり又は人の心を滅茶苦茶に切り刻む様に殺してしまうのです。それでは75節の様に「神が見ておる」「それが重い罪じゃ」と教えておられます。そういう重い罪をおかして本当のおかげを頂ける筈はない。
 それでは本人の助かりもない。その小笠原先生、小笠原と言う先生が昨日一日おられました。昨日その朝の御祈念も頂かれてもう。それこそ異様なまでに感動され感激され、昨日お取次ぎを頂いてから帰られるまで、私の事を金光様、金光様と呼ばれる。本当に文男さんが、私と年齢があまり変わらないと云われたが、本当に若いですけれども実際は70歳になられる、昨日そこの真中あたりに座っておられた方ですが若いのに驚きました。ハツラツしておられます。私よりも若い感じです。
 どうして前の日からおって、段々おかげを頂いて行かれる内に、途端に私に対する呼び名が金光様に変わられたか、成程お結界でお取次ぎを頂いている者、を金光様と頂くのは当たり前の事なんだけれども、言葉に出してまでも、金光様と云わなければおれない、何かがそこにあったからなのだ。金光様今日はおかげを頂ました、この度は本当におかげを頂きました。私は本当は婿探しに来たのですけれども。
 それ所ではない物を頂いて帰りました、帰りますこれを御縁にどうぞ、こちらでの心の真似は出来んけれども、せめて形の真似だけでもさして頂いて、合楽の御比礼をあちらの、下田のお広前の上にも、現さして頂きます様にと云うて、一緒にお食事を頂きましたが、やっぱり「金光様、金光様」と言うて、こちらは返事もされなかったですが、それが実に慇懃で、何が私を金光様金光様と呼ばれる様になったかと言うと。
 朝のお広前の御祈念の、様子を見せて頂いている内に、異様なまでの感動を受けられた。とてもここには、金光様のお徳が漲っていると感じられたというのです。ここには人が助かる事の出来れる、雰囲気がいっぱいだと感じられたのです。教祖さまが、「人が助かる事さえ出来れば。」と云うとられる。私も自分が助かる事よりも、人が助かる事を切に思う事があります。
 例えば私の事を悪く云うたり、非難したり批判したりする人が、こちらに直に通って来る事があります。そこで私が言い訳をしたら、あぁそうでしたかと分かる事があります。けれどもね、それではお互いの助かりにならんのです。ですからこちらが助かるよう見て貰う前に、この人が助からなければならん事が、祈りになっておらなければならない。いわゆる人が助かる事を心懸ていると云う事なんです。
 人が助かる事を何時も、人が助かる事が有難いんだと云う事を心得ている事なんです、それが私はと小笠原先生にも響いたんじゃなかろうかと感じました。今日はひとつここんところをね「人が助かる事さえ出来れば」という教祖様の御精神である、ご信心であるそれを私共は、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心する、その事を何時も心得ておく。そこから自分の生活態度というものが果たして人が助かる態度であるか。
 内容であるかと云う事を検討さして貰う。そこで思うのですけれどもね、それをずっと心得て人の難儀が助かるのが有難いと、心得てその心得て信心しよると間違いのないおかげが受けられましょう。けれどもそれが何時の間にかそう言う様な事が、そう云う事が全然私共の信心の心から無くなってしまって、むしろ反対に人の心を暗くしたり傷つけたり殺したりする様な結果になっていないだろうか。
 何がどこに原因があるのだろうか。原因を追求してみなければいけません。そこで今日御神訓の所を頂いたんです。そしたらね。「まめなとも信心の油断をすな、信心とは本心のたまを磨くものぞや。」と二つ並んでここに御座います。まめなとも信心の油断をすな、現在自分はさあもうというて、おかげを受けなければならんと云う事もない。ついつい油断が出来ておる。
 その信心の油断が原因、それから信心とは本心の玉を磨くものという、お道の信心の一番大事なとこを忘れておる、私どもがここん所を忘れている所に、その事を通して例えばここに難儀な問題があってもその事を通してその事を思って本心の玉を磨くと云う事を忘れている所に。人を助ける所か、人を難儀に落とし入れる様な振舞い、人を暗くしたり傷つけたり殺したりする結果になって行く。
 ではどういう時に人を傷つけたり暗くしたりするかというと、私達の心の中に不平不満が一杯の時なんです。親に対して不足を持つ、子供に対して不足を持つ、主人に対して家内に対して。先ず家庭の中からでも自分の周囲の人間関係と言った様な、その人に対する不平不足が、その人を見るとぶうとしてる、にこやかでない、不平不足が原因なんです。その不平不足のもういっちょ向こうの原因は信心の油断です。
 「本心の玉を磨くものぞや。」という。お道の信心の一番大事な処をもう抜きにしまっているからです。理屈で厳密に言うと今言うた様になるのですよでも中々そこん処が出来ない、けれども今日はここの処に焦点を置こうと、「人の難儀を助けるのが有難いと心得て」という前に助けるの反対の傷付けたり殺したりと言う様な事が無い様に心得てそこに焦点を置いて自分の実意丁寧神信心の欠けている事が相手にそういう不愉快どころか。傷つけたり暗くしたり、殺したりする結果になるのですから。
 ここん処を心得ての信心にならなければならん。今日特別にここに焦点を置いておかげを頂きたいと思う。それは「人間は病気災難のとき神に助けて貰うのであるから」とおうせられる、私達は神様のおかげを特別に頂きたいから、ひとつの条件の様ですが特別のおかげを頂きたいから、そこに焦点をおいて本気でおかげを頂こう。いよいよ、より明るくよりにこやかにと云う事に焦点を置いている時ならば人を傷付ける事も暗くする事も、殺す事も尚更ない。
 私共が、そう云う事が日常に欠けているのは、信心の油断であり信心さして頂いている一番大事な所は「信心は本心の玉を磨くものぞや。」と云う事を忘れて「信心とはおかげを頂くものぞや」と言う様に思うてしもうとる。信心とはおかげを頂くものではなくて、「信心とは本心の玉を磨くものぞや」なんです。ですからその事を通して、今度はそんなら反対に切り込まれて来ると申しましょうか、こっちは明るくなろう。
 こっちはにこやかにしようと思っているのに、相手の方から切り込んで来られる、ブスッと突いて来られる、それを見事に受けていけれるおかげを頂かなければ成りません。私は本当に「人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」人間は人を助ける事が有難いけれども、そこんところを心懸けていないといかに人を助ける力、働きを持っておっても助ける事にはならん。反対に殺したり傷付けたりする事になる。そういうものを人間は持っている、そんな訳にはいかん等と思わずにです。
 本気でそこの所に取り組ませて頂いて、ひとつ明るい親切な、天地の働きそのものが真なのですから、真をもって応えるのが信心だと小笠原先生が言うておられる様に、真を持って応える云う事は人を助ける事が有難しと心得るその心が私は真だと思う。その真を貫かして頂く処に、その為にいよいよ、にこやかに明るくなる事を心に懸けさして貰わにゃならん事になります。
 牛馬は、わが子が水に落ちても助ける事が出来ぬと仰せられるが、私共の子供が水に溺れている様な事はないでしょうか、私共の、親が水に溺れて居る様な事はないでしょうか、いわゆる助かっていない子供、助かっていない親、助かっていない主人、家内。牛馬は助ける事が出来ぬ、人間はそれを見ると助ける事が出来るのですから、それを本気で助けようという気になろうじゃないか。
 例えば家内がプンプンしとるなら水に落ちて溺れている様な物ですよ、主人が暗い顔をしているならば、水に落ち込んでいるのと同じ事ですよ、だからそれを引き揚げて助けると云う事は、私が今日申します様な処です。私共が心懸けて信心する、それを私はよりにこやかに、より明るく例えば人間関係でも、そういう心で接して行く所に、お母さんのおかげで明るくなった。
 傷付けられているのが安らいだその傷が癒えて来たと喜ぶのです。だからお互いが助け合い運動、例えば一家中勢を揃えて信心しておりましても、本当に助け合い的な、人間ですから何時落ち込んでいるか分からん。いつ暗い心になるか分からん、その時にすぐに側に居ってから、手を貸してあげる様な親切があるならそこに「おかげで助かった」信心を頂いている有難さというものを身に感じる事の出来る生活が出来るのです。
 人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、私共は特別なおかげを受けなけねばならんのであるから、ここのところは、どうでも私どもの信心の血や肉にならければならない。血や肉に成る為には、どうでも本気で頂かなければなりません。そこで今日は、ここんところを、本気で頂こうそしてそれを血に肉にして行こうというのが、今日の御理解ですね。
   どうぞ。